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2015年03月09日

観劇すること

 ここのところ、舞台を観に行くことが少なくなったように思う。理由は、時間の問題もあるけれど、それよりも嫌になるのが嫌で、足が遠のいている。
 そんな中、先月今月と、アマチュア劇団の舞台を観る。

 時間をつくって、お金を用意して、車を走らせて交通費をかけていく。

 舞台ってなんてアナログなんだろう。人に会いに行くようなものだな。勿論、出演する人、スタッフ、創り手に会いに行くんだけれど、作品を通してその人たちに会いに行く。観客がエライわけではないが、それだけの時間と、お金と、労力をかけて来てくれるので、自分が公演する時は、本当に有り難いと思う。

 自分の場合、人づきあいが上手というわけではないので、作品を通して、間接的にその人とコミュニケーションがとれると良いなと思って、作品を創る。作品って、私が出てしまうからな。恐ろしい。

 因みに最近よく、食について考えることがある。外食する時、人気のある外食店。観客は何を求めていくのか、主には味覚という感動、だろうなと思う。勿論、雰囲気が良ければ、視覚・聴覚・触覚もあるだろうけど。基本、味覚。

 舞台の場合、何だろう?視覚、聴覚、触覚、場合によっては臭覚?

 その感動を与えられているだろうか?といつも思いながら作品を創る。むしろそういう“おもてなし”みたいなものを何も考えていない作品を観ると、精神的に疲れる。物事を薄く見ている人は、作品も薄いんだろうなって。薄い人間にがっくりして、何でそんな人間が人より高いところで作品創ってみせているんだろう?と思う自分が嫌だから、足が遠のいてしまう。

 たまに技術が高いものを観ることがある。おースゴイって思う。確かにスゴイっていう感動はあるけど、魂に響くかどうかは別。

 ん?最近魂に響いた作品って何だろう?あ、去年は『永遠の0』だったか。日本の当時の技術や精神に対してメッセージを送られた。でもね、役者が良かったんだと思う。岡田准一くんが。彼自身が武術を通して、侍魂を持っているんだと思う。それが、スクリーンを通して私の魂に触れたんだと思う。そして、その元となった靖国神社の手紙。我が子を抱いた特攻隊員となった方の写真。親が子を慈しむ気持ちって、エネルギーや波動となって、魂を震わせるんだと思う。

 表現って、基本コミュニケーションなんだと思うわけですよ。それは観客かもしれない、神かもしれない、自分自身との交信かもしれない。棟方志功ってそんな感じがする。魂との交信って。そういう作品に出会いたいね。

 そういう、魂が欲するエネルギーってあると思うんだけど、そういうものに出会いたくて観劇したりもする。けど、ちっぽけな人間の作品観てると疲れちゃう。きっとその人は大きくなりたくて創っているんだろうけど、そういうのって見透かされちゃうじゃん?で、結果、自分が見透かすじゃん?その内、嫌になったりしないのかなって。

 私は最近、歴史モノばかり創作するせいで、その過去の人物と交信しながら作品創っている感覚に陥ることがある。礼をつくして書いているつもりなんだけどね。舞台を創っているつもりなんだけどね。それを観客に観てもらうというかね。観客にも交信してもらいたいというかね。

 そういう時空を超えた作品創作ってやっぱり面白いしね。自分が観劇する時も、そんな感激を味わいたいね。



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